ショートショート 部屋の盲点

男が目を覚ましたとき、部屋に違和感があった。

コーヒーカップが見当たらない。いつも朝一番に使うお気に入りの、青いカップだ。

テーブルには輪染みだけが残っていた。

鼻をくすぐる微かなコーヒーの香り。カップは確かに“あった”のに、今は見えない。

「まさか……」

部屋を見渡すと、読書用のランプがない。本棚の一角もぽっかりと空いている。
けれど、そこに手を伸ばすと、確かに“ある”。触れるのに、視界には映らない。

彼は眼科医に相談した。だが視覚には異常はなかった。
紹介された脳神経学者は、こう言った。

「RASの過剰反応です。網様体賦活系という、脳のフィルターのような機能が働いている」

「見えるものを、脳が勝手に選んでるってことですか?」

「はい。そしてあなたの脳は、ある種の記憶や感情と結びついた物体を“盲点”にしているようです。無意識の防衛反応ですね」

男は帰宅し、もう一度部屋を見回した。
見えないのは、妻が最後に淹れてくれたコーヒーカップ、
一緒に選んだ読書灯、彼女の好きだった詩集が並ぶ棚。

あの事故以来、彼はそれらを意識的に避けていた。
そして今、無意識がついに“視界から排除する”という手段に出たのだ。

壁際に飾ってあったのは、妻の描いた油絵。
だが、しばらく見つめていると、それすらも視界の端からじわじわと消えていった。

「……ごめん」

男は呟き、見えなくなった空間に手を伸ばした。
そこには、まだ温もりのようなものがあった。

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