その男の部屋には、ベッドも、机も、テレビも、冷蔵庫さえなかった。
六畳ほどの白い部屋の真ん中に、ぽつんと一脚だけ置かれた、木の椅子。
男はそこで、毎朝、白湯を一杯飲み、ゆっくりと座り、外の光が壁を移ろうのを黙って見ていた。
「不便じゃないんですか?」
記者の質問は、どこか困惑と興味の入り混じった響きだった。
男は目を細めたまま、穏やかに笑った。
「不便というのは、“何かが足りない”と感じる心の声です。でも……足りないと感じる暇がないほど、静けさが満ちているんですよ」
部屋には時計の音もなく、スマホの通知音もなかった。男は通信機器さえ持っていないという。外界とのつながりは、何もない。
「ここでは時間が動かないような気がしますね」
そう言う記者に、男はふっと笑みを浮かべた。
「動いていないのは時間ではなく、“自分の欲”かもしれません。捨てていくうちに、静かになって、ようやく考えが聞こえてきたんです。ずっと自分の中にあった声が、やっと」
記者は視線を巡らせた。壁の一角にだけ、小さな鉛筆の線が引かれている。短い言葉が、目立たぬように書きつけてあった。
「いろんなものを持った人は、何も見えない」
「それ、書いたんですか?」
男は椅子に腰かけながら、静かにうなずいた。
「持ちすぎると、世界が曇って見える。シンプルにすることで、ようやく見えてくるものもあるんです」
記者は取材を終えて外に出た。アパートの外では、都市の音が洪水のように押し寄せていた。車のクラクション、広告音声、工事現場の騒音。
彼の足取りは、なぜか少しだけ軽くなっていた。
帰り道、スマートフォンを確認すると、27件の未読メッセージと16個の通知。けれど、ふとためらって、電源を切った。
沈黙の中に何かがあると、今ならわかる気がした。
