エッセイ 日本の米

スーパーの棚にずらりと並ぶコメの袋。魚沼産コシヒカリ、秋田こまち、ななつぼし――日々の食卓を彩るその白い粒は、単なる主食ではなく、日本人の心そのものと言っていい。

私たちにとって米とは何か。飢えをしのぐための糧であり、祝祭に供える神聖なものでもある。春に田を耕し、夏に汗を流して育て、秋にその恵みを刈り取る。実りは神に感謝を捧げる「新嘗祭(にいなめさい)」へとつながり、皇室の年中行事としても今に受け継がれている。令和の御代になった時、天皇陛下が最初に執り行う儀式が「大嘗祭」であったことを思い出す人も多いだろう。そこでは天照大神に新米を供え、国家と国民の安寧を祈る。この伝統は、単に形式的な儀礼ではなく、日本人が自然と共に生きてきた歴史そのものを象徴している。

かつて米は「通貨」だった。江戸時代、年貢として徴収された米は、藩の財政基盤となり、武士の俸禄にも使われた。いわば米は「経済の単位」であり、権力の象徴でもあったのだ。それが今や、安価な外国産米との価格競争にさらされ、「採算が取れない」と嘆く農家も少なくない。だが、米は他の商品とは違う。価格の多寡だけでは測れない、文化的・戦略的な重みを持っている。

国際情勢が不安定になればなるほど、食料の「自給率」の重要性が問われる。日本の食料自給率はカロリーベースでわずか約38%。その中でも米は、数少ない「自給できる食料」だ。食糧安全保障の観点から見ても、米は国家の命綱と言える。仮に海外からの輸入が止まったとき、米が国内にあるかないかで、社会の安定性は大きく左右されるだろう。

近年、グローバル経済の波は、日本の農業にも「効率化」や「自由化」という名の下に厳しい選択を迫っている。しかし、日本の米は単なる「商品」ではない。田植えの風景、稲穂の海、秋の稲刈り――それらはすべて、日本人の原風景だ。米作りとは、単なる「産業」ではなく、「文化の継承」なのだ。

たとえコンビニの棚に、輸入されたパンやパスタが並び、食卓がグローバル化しても、「白いご飯と味噌汁」にふと帰りたくなる。それは、私たちの身体だけでなく、心に根ざした原点なのだろう。

「米を食べる」という行為の背後には、日本という国の文化、歴史、精神、さらには安全保障までが静かに息づいている。米は、ただの穀物ではない。日本人にとって、それは誇りであり、拠り所であり、精神性の象徴なのである。

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