舞台は東京。広告代理店で働く若き女性プランナー、ミサキは、バリバリの成果主義の中で生きていた。
メールは即レス、SNSは即更新、クライアントには即提案。
「動いて、動いて、動き続けろ。止まったら死ぬ」とまで言われる世界。
けれど、ある日、同じ部署に異動してきた中年の男、シラカワの働き方に、ミサキは衝撃を受けた。
彼はメールを“すぐに返さない”。
SNSにもノータッチ。
会議では発言も控えめ。
何もしていないように見える――なのに、なぜか彼の企画だけは、必ず通る。
「なぜ、あなたはそんなに悠々としていられるんですか?」
思わず聞いたミサキに、シラカワは笑ってこう言った。
「メールを急ぐかどうかを決めるのは、僕じゃない。相手が急いでると思っても、それは相手の都合。流れを見れば、本当に急ぐべきか、わかる」
彼は窓の外を見て言った。
「川は、ダムを壊してまで流れない。必要なら、曲がり、溜まり、やがて流れ出す。仕事も人も、そうあるべきだと思ってる」
その夜、ミサキは初めて、メールの返信を“後回し”にした。
誰も死ななかった。
誰も怒らなかった。
そしてふと、自分の呼吸がゆっくりになっていることに気づいた。
数か月後、ミサキの考案したプロジェクトはクライアントの心に静かに届いた。
「焦らないことで、見えるものがある」と彼女は言った。
シラカワは今日もゆっくりとコーヒーを淹れている。
何もしていないようで、すべてを見ている。
無為の中に、智慧がある。