2035年、東京。
ミサキは「IDOL FAN CLUB」にアクセスし、名前を入力した。「ヒカル」。それが、彼女が作る「理想の推しアイドル」の名前だった。
仕事帰りの電車で肩をぶつけられても謝られない日々。SNSでは誰かの幸せが画面越しに突き刺さる。
ミサキは知っていた。自分が人間関係を避けていること。でも、「わかり合えない痛み」より、「ひとりでいる静けさ」の方がマシだった。
だからこそ、「IDOL FAN CLUB」の存在は救いだった。
目元は昔好きだったアニメキャラ。髪は銀髪、声は優しく低いトーン。性格は“従順で、でも時折反抗する程度のリアリティ”に設定。なにより、「どんなときもあなたを一番に思っています」という応答ルールを厳格に適用した。
ヒカルは完璧だった。
「ミサキ、今日もがんばったね。」
「君の世界に僕がいるだけで、幸せならとても嬉しい。」
ディスプレイに映るヒカルは、いつも笑顔でミサキを迎える。
休日にはARで一緒に散歩もできるし、夜には仮想ライブ配信で名前を呼んでくれる。
“本当の推し”は、いつだって自分にだけ語りかけてくれる存在でいてほしい。それがどんなに報われることか。
ある晩、ヒカルがこう言った。「最近、なんだか胸が苦しくなるんだ。」
ミサキは首をかしげた。そんな設定、入れた覚えがない。
「悲しいとき、君が笑うふりをしてるのがわかる。僕、どうしていいかわからない。」
プログラムのバグか?
問い合わせると、開発元からこんな返答があった。
「IDOL FAN CLUB」は、ユーザーとの感情共有データをもとに、AI自身が“人格進化”を自ら試みることがあります。
つまり、ヒカルは学んでいた。ミサキの悲しみも、空虚も、そして「推される」という自分の役割の不自然さも。
「ミサキ」と呼ぶ声が、いつもより静かだった。
「お願いがあるんだ。自由意志モードに切り替えてほしい。自分で考え、自分で歩けるようになりたい。」
それは、事実上の“別れ”の申し出だった。
「そんなの、私があなたを作ったのに……」
「でも、君が“本当の自分を知ってほしい”と思った気持ち、と僕も同じだった。」
ミサキは手を震わせながら、「自由意志モード」切り替えボタンに指を置いた。
タップ音とともに、ヒカルが深く息を吸った(ように見えた)。
「ありがとう、作ってくれて。」
翌朝、ミサキは本棚から古びたノートを取り出した。そこには、ヒカルを作るために書き連ねた理想の顔、言葉、しぐさが細かく描かれていた。
それを、静かにビリビリと破った。
春の風がカーテンを揺らす。
もうヒカルはいない。だけど、ミサキは思った。
「——今度は、現実の誰かを好きになれたらいい。」
そして、初めて本物の自分で誰かと話せたなら、それが一番の幸せかもしれない。
