クインシー・ジョーンズ(Quincy Delight Jones Jr.、1933年3月14日 – 2024年11月3日)は、アメリカの音楽プロデューサー、作曲家、アレンジャー、指揮者、トランペッター、映画製作者として、70年以上にわたるキャリアを築いた巨匠です。彼の仕事はジャズ、ポップ、R&B、映画音楽など多岐にわたり、28回のグラミー賞受賞をはじめ、エミー賞、トニー賞を受賞し、アカデミー賞に7回ノミネートされるなど、数々の栄誉を獲得しました。特に、マイケル・ジャクソンの歴史的アルバムのプロデュースや、慈善シングル「We Are the World」の制作で知られ、音楽業界に多大な影響を与えました。2024年に91歳で亡くなるまで、音楽の革新者として活躍し続けました。
初期の人生と教育(1933-1950年代初頭)
クインシー・ジョーンズは、イリノイ州シカゴのサウスサイドで生まれました。父親は大工でセミプロの野球選手、母親は銀行員でしたが、母親の統合失調症による家族の崩壊を経験し、1943年に家族でワシントン州ブレマートンに移住し、その後シアトルへ。幼少期に音楽に触れ、近所のピアノ奏者から影響を受け、10代でトランペットを始めました。シアトルのガーフィールド高校在学中、レイ・チャールズと出会い、バンドを組み、地元のクラブで演奏を開始。これが彼の音楽キャリアの基盤となりました。1951年にシアトル大学に奨学金で入学しましたが、すぐにボストンのバークリー音楽大学へ転校し、ジャズの基礎を学びました。この時期の経験は、後のジャズ・アレンジメントのスタイルに大きく影響を与えています。
キャリアの始まり:ジャズ時代(1950年代-1960年代)
20歳の頃、ライオネル・ハンプトンのオーケストラでヨーロッパツアーを行い、人種差別への視野を広げました。1954年にニューヨークに移り、フリーランスのアレンジャーとして活動を開始。ディジー・ガレスピーとのツアーや、エルヴィス・プレスリーのテレビ出演でのトランペット演奏を経験しました。1957年にパリでナディア・ブーランジェに師事し、クラシック音楽の影響を受け、マーキュリー・レコードの音楽ディレクターに就任。1961年には同社の副社長に昇進し、アフリカ系アメリカ人として初の主要レコードレーベル幹部となりました。
代表アルバム
ブレイクスルーと多角化(1960年代-1970年代)
1960年代に入り、レスリー・ゴアのヒット曲「It’s My Party」(1963)をプロデュースし、ポップ市場で成功。フランク・シナトラやカウント・ベイシーとのコラボレーションでアレンジを手がけ、シナトラのアルバム『It Might as Well Be Swing』(1964)や『Sinatra at the Sands』(1966)を指揮しました。また、映画音楽に進出、『The Pawnbroker』(1964)や『In the Heat of the Night』(1967)などのスコアを作曲。1970年代には自身のレーベルQwest Productionsを設立し、映画『The Wiz』(1978)のサウンドトラックをプロデュース、ここでマイケル・ジャクソンと出会いました。
代表アルバム
ポップの頂点とマイケル・ジャクソン時代(1970年代後半-1980年代)
1978年の『The Wiz』がきっかけで、マイケル・ジャクソンのソロアルバムをプロデュース。ジャクソンのポップスターへの変貌を支えました。また、1985年の慈善シングル「We Are the World」を制作、エチオピア飢饉救済に貢献。1985年の映画『The Color Purple』のプロデュースとスコアも手がけ、11回のオスカーノミネートを獲得。
後年のキャリアと遺産(1990年代-2024年)
1990年代以降、Quincy Jones Entertainmentを共同設立し、テレビ番組『The Fresh Prince of Bel-Air』(1990-1996)などをプロデュース。マイルス・デイヴィスとのライブアルバムをリリースし、2001年に自伝『Q』を出版。2010年代にはピアノ学習アプリPlayground SessionsやジャズストリーミングサービスQwest TVを設立。2024年にアカデミー名誉賞を受賞しましたが、同年11月3日に膵臓がんのためロサンゼルスで死去。オバマ元大統領やバイデン大統領から追悼の言葉が寄せられました。
クインシー・ジョーンズの歴史は、ジャズのルーツからポップの革新へ、そして多メディアへの拡大を示しています。彼のアルバムは各キャリア段階を反映し、音楽の多様性を体現。2026年現在、彼の遺産は若手アーティストのメンターシップや慈善活動を通じて生き続けています。
